ホテルで夜中に目が覚めて暇だった時間に、前々から気になってた映画「アンドリューNDR114」を見ました。
以下の内容にはネタバレが含まれるのでご注意ください。
感想
前日に友人と一般につまらないとされる映画を見る遊び等をしていた影響もあってか、序盤から内容が濃くテンポも良かったので楽しく見れました。
割と素直な気持ちで見ていたので、ガラテアが登場した時にはそのままくっつくのかと思ってしまいました。
しかし後から映画全体を通してよくよく考えてみると、物語を通して無機と生命の境界を超えるという部分が大事なテーマなのでそれだけはあり得ない話でしたねw
結構伝えたい事もしっかりしていて良い映画だと思ったので、後から評価が低く失敗したという話を聞いた時は驚きました。
ロボットと人権
この映画のストーリーラインでのロボットの人権についての議論が、自分がなんとなく考えていた事をなぞるような感じだったので面白かったです。
ロボットが人権を持てるのかどうかについては元々疑問に思っていて答えを出せずにいましたが、種差別や社会の目的について考える中で、去年の自分は作中のストーリーと同じような考えにたどり着きました。
まず思考の出発点は「人や動物、植物や菌類を全て自己複製を目指す存在として抽象化して同じ社会の仲間と見做せるのではないか?」という疑問でした。
この極端な立場からの問いは、カントが言っていた道徳的主体の概念を思い出したので、すぐに解消できました。
道徳的主体とはつまり、理性によって道徳的判断のできる存在ということです。完全に否定はできないものの、少なくとも今の情報では植物や菌類はこの条件を満たさないと言って良いでしょう。
しかし、一度はこれで納得したもののすぐに「社会は実際に知能や理性、善性を持つロボットが社会の一員になりたいと言った時に、受け入れることができるか」という疑問が浮かびました。
この事について考える中で辿り着いた答えは「社会の一員になるロボットは人間と同じように人格を持つと同時に同じように法に縛られなければならない」ということです。これはつまり、「ロボットに人間と同じ仕方で罰を与えた時に同じ意味を持たねばならない」ということになります。
この理論はロボットだということよりも、その不死性に大きく関係します。ここで作中で出てきた裁判長のセリフを見てみます。
Society can tolerate an immortal robot, but we will never tolerate an immortal human.
(訳) 人間社会は不死のロボットを受け入れても不死の人間は受け入れない。
仮に死刑にあっても死なないのであれば意味がなく、懲役刑にあっても老いないのであれば痛くも痒くもありません。
共同体とはただ道徳的判断能力によって定められるのではなく、社会契約に基づいてお互いを縛り平等に責任を果たすという条件の下に成り立つものだったということです。
映画の最後でアンドリューは遂に老いる力を得て人間として認められました。私達の社会を結束させていたのは他でもなくこの生命の有限性だったというわけです。